「私は上訴します。」この言葉は、簡単に口にできる言葉ではありません。したくもありません。上訴とは、判決を不服とした者が、更に上級の審判を仰ぐものです。追い詰められた者が取る対抗手段です。使徒言行録25章で、パウロは総督フェストゥスの前に立ち、不当な訴えと陰謀に囲まれながら、この言葉を口にしたのです。「私は皇帝に上訴します。」。これは、信仰的に美しい言葉ではないとみなされることもあります。ありません。世に訴えたら負けだという信仰者もいます。しかしパウロの上訴は「信仰から逃避」しているのではありません。パウロは、・不正な裁判・暴力の危険・ねじ曲げられた宗教的権威の中に置かれていました。その中で彼は、ローマ市民として与えられていた法的権利を用います。そこには最善を尽くす信仰者の姿があります。祈らなかったから訴えたのではなく、祈った上で、祈りの内に訴えているのです。
この上訴の背後には「もう一つの上訴」があります。パウロはすでに、こう告げられていました。「あなたはローマでも、わたしのことを証ししなければならない」皇帝への上訴は、パウロが自分で思いついた偶然の選択ではありません。神のご計画が、すでに先にあったのです。パウロは人に向かって上訴しました。その結果、ローマまで赴くことになるのです。パウロの上訴の背後では、神がすでに道を備えておられたのです。
皇帝とは、当時考えうる最高の権威です。しかし、皇帝にも限界があります。皇帝はすべての不正を正すことはできませんし、人の心の動機を見抜くことはできません。何より、命そのものを救うことはできません。どれほど大きな力も、最後の裁き主にはなれないのです。私たちも同じです。上司、組織、制度、世論といった権威は無視できません。しかしそこに最終的な希望を置くと、必ず行き詰まります。そしてここで訴えることができない問題が私たちの生涯には存在します。それでも私たちには「神さまへの上訴」が残されているのです。聖書が伝える幸いは、ここにあります。私たちは、皇帝よりも、制度よりも、人の評価よりも、さらに上に訴えることができるのです。神への上訴とは、自分の正しさを証明することではありません。言葉にならない叫び、不公平への嘆き、どうしていいかわからない沈黙、それらすべてを、そのまま差し出すことができるのです。
神さまは、形式を整えた訴えだけでなく、心の奥の叫びを聞かれる方です。本来、私たちは訴えを棄却される存在でした。ところが、キリストが私たちの傍らにいつもいてくださることにより、私たちは「棄却されない上訴」をすることができるのです。それは自分が正しく、慎重な準備ができたからではありません。イエス・キリストが、不当な裁きを受け、沈黙し、十字架にかかられたからです。この十字架の業によって、私たちは本来なら訴え出ることができないはずの神様の御前に進み出て、全てを神さまに訴えることが許されているのです。パウロは言いました。「私は皇帝に上訴します。」一方で私たちはこう言うことができます。「私は、神に上訴します。」不当な扱いを受けている人も、声を上げられない人も、理解されない痛みを抱える人も、神に訴える道は、閉ざされていないのです。
中村恵太